つまみ細工の日本の歴史と変遷について
つまみ細工の起源について
つまみ細工は江戸時代に生まれ、1800年代「文化文政時代」の町民文化の中で育まれていきましたが、もっと広義の解釈をすると江戸幕府ができた1603年に始まったと言われる歌舞伎などの演芸の装飾などに使われた「かんざし」に起源を持っていると考えられます。
更に歴史を辿ってみると、8世紀の中頃の文献に登場する「有職造花」(ゆうそくぞうか)という絹や和紙などを用いた造花を宮中での行事の際に飾られており、この頃に源流があると推察されます。
一凛堂でもお付き合いのある、日本で数少ない有職造花師の大木素十先生のホームページはこちらをご覧ください。
https://oki-suju.com/
舞妓の花かんざしからつまみ細工の大衆化へ
一般的に馴染みのある「舞妓さんの花かんざし」はつまみ細工で作られていますが、これも江戸の文化文政時代に一般的になったと言われています。
その後、明治維新・大正ロマンなどと呼ばれる時代の節目を経て、西洋文化を上手に取り入れながらも日本独自の文化が作られていきました。
昭和に入り特に戦後は、五節句をはじめとして、人生の節目に着物を着て家族でこれを祝うという風習も一般化されていきました。
昔は町の写真館で家族写真を撮るというスタイルが主流でしたが、1970年代頃からは大手呉服店が貸衣装店をチェーン店化し、大手写真館も同じく全国展開をし、七五三や成人式のお祝いがより身近なものになっていきました。
つまみ細工もこれに合わせて全国に広まっていき、髪飾り業界の中で「つまみかんざし職人」と呼ばれる専門の職業として確立されていきました。
この時代は日本独自の流通形態として「問屋」と呼ばれる業態が市場を支えており、つまみかんざし職人は問屋の元で物作りに従事することで、好景気の頃は十分に生計を立てられるだけの仕事がありました。
そして「バブル崩壊」と言われる1990年頃を境に、市場そのものが激変していくこととなりますが、特に伝統工芸など手仕事を主流とする業界はこぞって安い労働力を求め海外に進出していくことになります。
こうした時代背景に翻弄される形で多くの職人が仕事を失い、後継者がいなくなるだけでなく、原料や道具類などを作ってきた業界も違う分野に移行せざるを得なくなり、結果として「伝統文化」の継承が困難になっていったということです。
参考として、1980年の全国の出生数は約157万人で女児は約75万人と言われており、この年に生まれたお子さんの多くが1983年と1987年に何らかの形で七五三のお祝いをされた訳ですので、市場としては非常に大きなものでした。これが2020年になると出生数が約84万人となりほぼ半数に減少したことになります。(総務省統計局の数値を参照)
人口動態調査 人口動態統計 確定数 出生上巻 4-1 年次別にみた出生数・出生率(人口千対)・出生性比及び合計特殊出生率 | 統計表・グラフ表示 | 政府統計の総合窓口 (e-stat.go.jp)
一凛堂の前身であるつまみ堂創業者 高橋正侑
一凛堂の前身である旧つまみ堂の店主であった高橋正侑(故人)は、浅草橋の老舗装飾品問屋の2代目としてこうした業界の変遷の歴史を間近に経験し、晩年次の時代を作っていくのは次の世代にしかできないが、伝統を伝え遺していくことは自分の責務でもあるという思いから、つまみ細工の伝統文化を継承する目的で「つまみ堂」を創業しました。
伝統工芸を正しく伝え残していく為に、本物の職人の力を借りるべく幾度となく職人の元を訪ね協力を求めましたが、当時は「弟子にも教えない技を幾ばくかのお金をもらって一般の人に教えるなどとんでもない!」と断られ続けました。
その中で、親子2代に渡り荒川区の無形文化財保持者であった戸村絹代氏との出会いがあり、故人の熱心な依頼に応じる形で現役のつまみかんざし職人による体系的なつまみ細工講座が開講されることになりました。こうした事がきっかけとなり、ご自身のお子様やお孫さんの七五三のお祝いの際に自分でつまみ細工の髪飾りを作りたいという当時では新しいニーズが生まれ、これが現在のクラフトとしてのつまみ細工という形になっていきました。
つまみ細工の伝統を守るために大切なこと
歌舞伎や演劇など、芸能のプロの方達が身につける衣装や飾り物を作る職人の減少は抑えることができず、材料や道具類を作る産地も減り、200年続く伝統文化の衰退という課題は解消されないままです。
クラフトとしてのつまみ細工と伝統工芸としてのつまみ細工をどのようにして結びつけていけるか、これが次の時代に大きく影響を及ぼすことは間違いのない事実ですが、それには現在の若い人の力が必要ですし、また子供達への働きかけなども大切なことです。
次回ブログでは、この点についての記事をご紹介する予定です。